【活動報告2025.5.15】 (第36回) 縁joy! 日本書紀の会

開催日  : 2025年 5月 15日(木)
開催場所 : オンライン
出席者  : 荻野、関、増山、森本、宮嶋、深田、鈴木[入会順、敬称略]
<発表者> 鈴木

 今回は、神武天皇のあと、崇神天皇の間の8人の天皇を取り上げました。具体的には綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊・孝元・開化という名前ですが、かなりなじみの薄い天皇たちです。日本書紀においては、その系譜(親と子)や王宮・墳墓の場所以外の事跡の記載がなく、欠史八代といわれ、多くの歴史学者・考古学者からその実在性も疑われている天皇たちです。

 このころの天皇陵は、おおむね前方後円墳だと考えられており、第10代、崇神天皇陵とされている天理市の行燈山古墳は墳丘頂242mという超巨大前方後円墳で、それ以降、29代の欽明天皇(579年没)まで、天皇陵としてふさわしい大型前方後円墳が存在します(宮内庁の陵墓指定がまちがっているケースもあるが)。

 上記の表は、日本書紀に記載されている天皇の王宮と陵墓の位置です。古墳時代の王宮については、明確な形で発見された例はありませんが、その可能性が指摘されている遺跡がいくつか見つかっている程度です。一方陵墓については、崇神天皇以降の天皇についてはそれらしい古墳が存在します。ところが、欠史八代および神武天皇の陵墓とされているものは、開化天皇陵を除いて前方後円墳ではなく、考古学的に墳墓ですらないところもあります。開化天皇陵は立派な前方後円墳ですが、その建造された時代は5世紀であり、実在したとすれば崇神天皇の前の4世紀前半ごろの開化天皇のものではありえません。 

 その他さまざまな理由で欠史八代は実在しなかったと考える研究者がほとんどの中、1980年代に鳥越憲三郎という歴史家は、欠史八代の天皇は存在した前提で、崇神以降の系譜とは異なる葛城王朝があった可能性を唱えました。日本書紀では、崇神天皇以降の王宮の多くが奈良東南部、三輪・纏向地域にあるのに対し、それ以前は橿原・葛城地域に集中しており、葛城王朝が崇神に始まる三輪王朝にとってかわられたというものです。

 1980年代は未だ考古学的にこのような考察を行える状況ではなく、文献史料のみに基づく議論は下火となっていきました。その後、継続的な発掘調査により、纏向など初期ヤマト王権の中枢部についての在り方の研究が進み、当時の王宮の在り方なども議論の俎上に乗り始めている状況です。近年、葛城地域の南郷・中西遺跡で4世紀代の王宮ではないかという遺跡が発掘され、注目されています。纏向地域と併行して王宮が存在していたと考え、鳥越とは別の形での葛城王朝の可能性を唱える研究者も出てきました。まだまだ検証すべき点は多いのですが、新たなヤマト王権の在り方を提示できる可能性を秘めていると思われます。

 普段あまり取り上げられない欠史八代に関連して、最新の考古学研究の成果を紹介させていただきました。

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