【活動報告2023.4.20】(第24回)縁joy!日本書紀の会

開催日: 2023年4月20日(木曜日)
開催場所:オンライン
出席者[入会順、敬称略]: 荻野、関、増山、森本、宮嶋、深田、柳下、鈴木
発表・投稿者: 増山 憲司

【発表概要】
 今回は、初の女帝となる第33代推古天皇と「摂政」として推古天皇を支えた聖徳太子に焦点を当て、このような体制に至る背景や経緯について探ってみました。
主な要因としては、以下の3点が挙げられます。
 ①6世紀末後半の朝鮮半島情勢および倭国との関わり
 ②百済から倭国への仏教公伝、およびその布教を巡る
  有力豪族(蘇我氏と物部氏)の対立
 ③第30代敏達天皇以降の後継者争い
 特に、仏教の受け入れに関しては賛否両論があり、布教を支持する蘇我馬子と布教に反対する物部守屋が対立した結果、丁未の乱が起こりました。戦いは、蘇我氏が勝利し、物部氏は没落してしまいました。こうして、蘇我氏が実権を握り、第31代用明天皇崩御後の天皇として、物部氏が推す穴穂部皇子ではなく、蘇我氏が推す第32代崇峻天皇が即位しました。しかしながら、その後、崇峻天皇は事実上の大君のように振舞う蘇我馬子に次第に反感を抱き、両者は対立する関係に至りました。そして、最後には蘇我馬子が東漢駒に命じて天皇を暗殺させてしまいました。
 後継の天皇としては、第30代敏達天皇の皇后であった額田部皇女が初の女帝として即位し、第33代推古天皇となりました。また、推古天皇の施政を補佐するため、民衆に慕われていた聖徳太子(厩戸皇子:用明天皇の長男)が「摂政」として加わり、蘇我馬子を含めた3者による体制が築かれました。厩戸皇子が即位されなかった理由は、年齢的に若かったからだとされています。

 今回、聖徳太子に関係する系図を確認しました。そこから見えてきたことは、推古天皇と聖徳太子とは叔母と甥の関係にあり、推古天皇と蘇我馬子とは叔父と姪の関係にあったこと、さらに当時は天皇家と有力豪族(蘇我氏)との血縁関係が非常に密であったことが分かり、両者が相互に協調し合っていたことが覗えました。

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