開催日 : 2024年11月21日(木)
開催場所 : オンライン
出席者 : 荻野、関、増山、森本、宮嶋、深田、鈴木[入会順、敬称略]
<発表者> 宮嶋
日本書紀(上)巻第十五は、三人の天皇について記されています。それは第二十二代・清寧(せいねい)天皇、第二十三代・顕宗(けんぞう)天皇、第二十四代・仁賢(じんけん)天皇です。清寧天皇は雄略天皇の第三皇子でしたが、生来白髪で、成長してからは人民を慈しんだため、父帝(雄略天皇)は「霊異を感じて」皇太子としました。諱(いみな)は白髪です。しかし、日本書紀において清寧天皇に皇妃の記載は無く、そのため後継者もいません。
一方、兄弟である仁賢天皇と顕宗天皇は、父・市辺之忍歯王(いちのべのおしわのみこ)が雄略天皇によって殺され、危険を感じて播磨の国明石に身を隠し、長らく辺境の地で使用人として仕えます。その後、兄弟は宴の席で清寧天皇の臣下であった山部連小楯(やまべのむらじおだて)に身分を明かし、皇嗣が無かった清寧天皇に後継者として迎えられます。しかし、清寧天皇は執政4年余りで崩御され、兄弟は互いに皇位を譲り合うのですが、兄に説得された弟の弘計王(をけのみこ)が二十三代天皇となります。が、その顕宗天皇も僅か2年で崩御したため兄の億計王(おけのみこ)が皇位に就き、二十四代・仁賢天皇となったのです。
幼い頃から優れた才知を持ち、人格者だったと言われている仁賢天皇。弟と共に命からがら逃げ、民衆に紛れて生活して苦労した経験もあったことから、温厚篤実な天皇という記述が残されていて、国は安定し、仁賢天皇時代のことは「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」と記されています。そして父の仇である雄略天皇の娘、春日大娘(かすがのおおいらつめ)を皇后として迎えていることからも、器の大きさが伝わるエピソードと云われています。 以上が巻第十五の要約ですが、他の天皇と比較すると、三人の天皇の事績については大変僅かである事が窺えます。
次に、サブタイトルに掲げた「貴種流離譚」についてざっくりと説明しますと・・・この文言は、国文学者であり民俗学者の折口信夫によって構築された研究や称えられた思想を、一つの学問体系とみなされた『折口学』の用語の一つで、若い神や英雄が他郷をさまよいながら試練を克服した結果、尊い存在となるという説話の一類型です。「貴種」は尊い家柄に生まれた人であり「流離」は故郷から遠く離れた他郷をさすらうことを指していて、よく知られているものとしては、昔話の「竹取物語」やディズニーアニメの「ライオンキング」などがあります。
ここに記されている億計王と弘計王も、天皇の血筋でありながらも雄略天皇から逃れるために、辺境の地で下層民として牛や馬の世話をして暮らし、さまざまな苦難や試練を体験して国に戻って皇位に就いたという正しく「貴種流離譚」なのです。では果たして、三人の天皇は実在したのでしょうか?
清寧天皇については、一説によると白髪だったから白髪皇子と名付けられたのは現実的にやや「不審」で、白髪部という部と白香谷という地名から創出された架空の天皇ではないかという記述も見られます。また、顕宗・仁賢天皇については、王位継承のライバルとなる親族を次々と殺戮した雄略天皇とは対象的な“聖天子”として描かれています。関連する文献等を調べたところ、国文学者の田中徳定氏は「記紀の編纂は天武朝における律令国家建設の一環として行なわれたものであり、特に日本書紀は大和朝廷による全国統治の所以と皇統の正統性を内外に顕示することを最大の目的として、唐王朝を意識して編纂されたものである。そのため日本書紀に記されている天皇像には、古代中国の聖太子になぞられた表現が用いられていて、『儒教的君子像』を描こうとした意図が窺える。」と述べています。また、古代史学者の塚口義信氏は、「顕宗・仁賢天皇を“有徳の天皇”とする思想は記紀のもととなった欽明朝に成書化された「原帝紀」の思想を受け継いだものであり、そのまま事実とは認めがたい」という見解を記しています。“聖天子”として描かれている裏事情(?)はさておき、昔から民の心を知る人が良き政を遂行してくれるという話は、昨今の社会情勢を考えると、物語ではなく事実であってほしいと願うのは私だけでしょうか。
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