【活動報告2024.2.15】 (第29回) 縁joy!日本書紀の会

開催日  : 2024年2月15日(木)
開催場所 : オンライン
出席者  : 荻野、増山、森本、深田、柳下、鈴木[入会順、敬称略]
<発表者> 鈴木

 今回は、神武天皇の2回目、八咫烏に焦点を当てました。神武天皇は東征の後半、鳥たちの援護を受けて大和征服を成し遂げました。その鳥がカラス(八咫烏)であり、金のトビ(金鵄)でした。カラスは大阪湾から大和入りに失敗した神武一行が、熊野から再度大和に向かう際の道案内として登場します。金のトビは大和征服の最終決戦でナガスネヒコと対峙した際に現れて敵の戦意を喪失させます。八咫烏は加茂氏の祖先・氏神として、また熊野神社の主祭神であるスサノオノミコトのお仕えとして今に至るまで大切に祀られています。

 八咫烏の咫(あた)は長さの単位で、約18cm、八咫は従って146cmくらいの大きさとなります。三種の神器の一つ、八咫鏡は門外不出であり、大きさも正式には図られたことはありません。日本で出土した最大の円形の銅鏡は、九州の平原(ひらばる)遺跡から出土したもので、直径46.5㎝あり、その円周が146㎝になることから、八咫鏡の原型ではないかともいわれています。八咫鏡が収められた箱の大きさからも整合性があるようです。これが正しいとすれば、八咫烏は翼開長が146㎝くらいの大きな烏であるということになります。日本で普通にみられるハシブトガラスやハシボソガラスは翼開長が100㎝程度ですので、それよりは、かなり大きいものでした。ユーラシアから北米大陸には翼間長150㎝にもなるワタリガラスが存在しますが、日本には冬場に北海道に渡って来るだけであり、大和に生息していたとは考えられません。もし八咫烏が実在したとすれば、ハシブトの中でひときわ大きくなったものなのかもしれません。

 日本書紀では、八咫烏は神武天皇の家来として、大和征服後、論功行賞をうけており、今の京都市内にあたる地域の県主に任命されており、加茂氏の祖先とされています。葵祭で有名な京都の加茂神社は加茂氏の氏神で下賀茂神社の御祭神、加茂建角身命は八咫烏と同一神とされており、現在に至るまで多くの人の信仰を集めています。

 一方、熊野神社の八咫烏ですが、これは日本書紀の記載からの後付けではないかと思われます。紀伊の熊野三山の名前が出てくる最初の歴史書は10世紀のものであり、熊野三山が権現信仰で栄えるのは平安時代のことだそうです。仏教と神道が一体化していく中、日本書紀で熊野に出現した八咫烏を、阿弥陀如来と一体化したスサノヲに仕えた鳥として、造られていったのではないかと考えられます。

 八咫烏と言えば、三本足のサッカーの神様としても有名です。ただ、日本書紀には八咫烏が3本足であるとは書いてありません。日本で八咫烏が三本足だとする歴史書は平安時代の10世紀に書かれた「和名類聚集」が最初だとされています。一方、中国では前漢中期以降に太陽に住む三足烏の伝承があり、それが、八咫烏と10世紀に合体していったのではないかともいわれています。平安時代後期、12世紀に活躍した蹴鞠の名人、藤原成道は蹴鞠上達を祈るため50回も熊野にお参りしたという記録が残っています。このころから八咫烏は蹴鞠の神様だったのかもしれません。

 明治35年に東京高等師範学校の中村覚之助が日本で初めてフットボールクラブを創設しました。その後、東京高師の卒業生が各地にサッカーを広め、昭和6年に日本蹴球協会を設立させるにあたって、すでに亡き中村覚之助の出身地、那智にちなんで八咫烏をモチーフにした旗章を作成したとされています。以後、現在に至るまで、八咫烏、そして熊野神社・加茂神社は、トップ選手から末端のサッカーファンまでサッカーの守護神として尊崇を集めています。

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