開催日 : 2024年7月18日(木)
開催場所 : オンライン
出席者 : 荻野、関、増山、森本、宮嶋、深田、鈴木[入会順、敬称略]
<発表者> 深田
雄略天皇の4回目。今回は、総括として雄略天皇紀を通じて考えられる5世紀のヤマト王権の変貌の実態について纏めて発表しました。まず、王権の権力基盤の強化がなされた背景と要因について再考しました。さらに、雄略天皇より前の時期、恐らく4世紀後半から5世紀以降、倭国に沢山やってきたと考えられている『渡来人』について焦点を当て、5世紀のヤマト王権に渡来人がどう関わったかについても検証してみました。
日本書紀には、ヤマト王権が当時の朝鮮半島の政治に深く関わっていたという記述が随所に見られます。朝鮮半島諸国(百済・伽耶諸国・新羅・高句麗)のうち、伽耶諸国は鉄資源の供給地としてヤマト王権の重要な交易相手でした。この鉄資源の供給源を確保することが、ヤマト王権が朝鮮半島情勢に関与した動機だと考えられています。中国の『宋書』には421年~479年の約60年の間に倭国の5人の王が朝鮮半島での軍事支配権の承認を目的として何度も朝貢してきたと記されています。雄略天皇はその5番目の王だと考えられていますが、その証拠に雄略天皇紀には呉国(当時の中国南朝の宋)に2回使節を派遣したと記されています。『宋書』に記されているような遣使の目的は書かれていませんが、宋からの返礼使節を厚くもてなしたことも記されています。
5世紀のヤマト王権がどの大王の時代かははっきりとしませんが、恐らく第16代仁徳天皇から第25代武烈天皇の10人の天皇の時代と推定されます。この10人のうち5人が宋書に出てくる『倭の五王』にあたり、5番目に遣使した雄略天皇の時代にヤマト王権の力が最も強化されたと考えられます。王権の力が強まった要因とその過程は、以下のようなポイントを押さえておく必要があると考えます。
- 朝鮮半島における外交や軍事は大王家の皇族ではなく、葛城氏、吉備氏、紀氏等の有力な古代豪族が担っていた。初期のヤマト王権では、大王家はあくまで有力豪族達の盟主程度の存在でしかなく、有力豪族は外交方針などで大王家に反旗を翻し、反乱を起こすことが度々あった。
- 大王家の外交方針は、鉄資源の供給源の『伽耶諸国』とそれと親密な『百済』との友好関係を結ぶものであり、『新羅』とは距離を置いていた。外交を担った有力豪族達が大王家の方針に背いて『新羅』側につくことが頻発すると、これを機に大王家による有力豪族の制圧が5世紀に行われた。
- 朝鮮半島の外交を担っていた有力豪族は、渡来人の持っていた最先端技術(織物・鉄器・須恵器・馬具等)を大王家とは別ルートで自分達の領地内に確保して力を蓄えていた
- 5世紀後半、特に雄略天皇の時代から、大王家が有力豪族を制圧した結果、有力豪族の傘下にあった渡来人と彼らの持っていた最先端技術がヤマト王権直轄に再編成された。渡来人の先端技術を生かした鉄や土器の生産工房が大阪湾周辺に『王家の工房』として築造され、王権強化に寄与した。
- 倭国の大王として宋への国書を送ったり、王家同士の付き合いとして百済などから人質を受け入れたりしたことは国の代表として外交を一手に握ることを意味し、有力豪族の支配強化に寄与した。
このように、ヤマト王権が朝鮮半島における外交や軍事に関わったことが結果的にヤマト王権の国内の権力基盤の強化に繋がったと考えられます。以上の論点が雄略天皇紀から読み取ることができる5世紀のヤマト王権の変貌の歴史的背景と考えられます。
しかし、これはあくまで5世紀の話。大化改新、律令制度の導入によって天皇家中心の中央集権国家の構築が始まるのはまだ150年以上先の出来事になります。それでは6世紀はどんな世の中だったのでしょうか。まだまだ、中央集権国家の夜明け前の薄暗い状態であったことでしょう。飛鳥時代の始まる直前の6世紀の世界は次回以降の研究テーマにしたいと思います。この時代は第26代継体天皇から第30代敏達天皇の時代になります。順次日本書紀を読み進めていき、当時の外交、渡来人との関わりなどについて深堀してみたいと考えています。
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