【活動報告2022.8.18】(第17回)縁joy!日本書紀の会

開催日: 2022年8月18日(木)
開催場所: オンライン 
出席者[入会順、敬称略]: 荻野、関、増山、森本、宮嶋、深田、柳下、鈴木

<発表者> 深田

今回は、雄略天皇の2回目。本文で語られる”吉備氏の反乱伝承”について深堀してみました。まずは、吉備氏がヤマト王権の成立にどう絡んだのか?

実はヤマト王権は、天皇家が戦争によって全国制覇したのではなく、筑紫・出雲・吉備など地方勢力同士がヤマトと同盟を結んで平和的に樹立された政権だったらしい。これが、考古学上の有力な学説です。吉備と出雲の王国の成立はヤマトよりも早く2世紀には成立していたらしい。地方勢力の中でも吉備氏はヤマト王権を担いだ最有力氏族だったと考えられます。

そんな吉備氏が天皇家に反旗を翻して朝鮮半島の『新羅』と手を組んだという話ですから穏やかではありません。一方、奈良の最有力豪族の葛城氏の当主が2代続けて天皇家に誅殺された経緯が日本書紀に語られています。これは、吉備氏と同様に葛城氏が『新羅』寄りの外交スタンスを取ったことが遠因だと考えられます。新羅と友好関係を結ぶ吉備氏や葛城氏のスタンスは、百済・任那と連携して最新の技術と鉄資源を輸入する天皇家の外交戦略に反していたのです。

雄略天皇は、ヤマト王権と異なる外交路線を取ろうとした葛城・吉備氏を粛正し、王権の政治・軍事力を強化しました。世界遺産となった5世紀の古市・百舌鳥古墳群の周辺からは大量の鉄製の鎧などの武具が見つかります。雄略天皇の目指した強い軍事政権、”鉄の王朝”の姿が浮かび上がってくるのです。

<感想> 荻野

今回の深田さんの発表の中心テーマは”吉備氏の反乱伝承”でしたが、私はその前段として説明された”ヤマト王権成立前夜の吉備・出雲・大和の関係“に興味が惹かれました。大和王権がスタートする前の2世紀頃に、吉備・出雲では、相互に結びつきの強い、墳墓祭祀による王政が始まっていたという説明も意外でしたが、そうした祭祀の方法が大和王権に引き継がれて、大型の前方後円墳に発展していったということが、考古学的な検証によって説明がつく(納得させられる)ということに心が高ぶり、箸墓古墳や纏向遺跡のミステリー感が更に深まりました。ただ一つ残念だったのは、箸墓古墳の放射性炭素年代測定法による年代推定結果と、日本書紀の記述から、私のテーマである第12代景行天皇の時代は3世紀後半以降になってしまうと認めざるを得なくなったこと。わが街府中のシンボル「大國魂神社」の創建が、景行天皇の御代の西暦111年だという伝承を盲目的に信じる訳にはいかなくなってしまいました。まさか、深田さんの”雄略天皇”のパートで、そんな残念なことに気がついてしまうとは思いませんでした。皆さんの発表から、常に新しい発見が得られます。私にとっては、それこそが、この会の大きな魅力です。

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