開催日 : 2024年9月19日(木)
開催場所 : オンライン
出席者 : 荻野、関、増山、森本、宮嶋、深田、鈴木[入会順、敬称略]
<発表者> 荻野
今回も景行天皇の九州遠征が続きます。
前回は豊前国での初戦、今回は豊後国での第二戦の舞台(伝承地)を巡りました。
初戦では、神夏磯媛という女性首長の協力を得て4人の土蜘蛛を討ち滅ぼしましたが、第二戦では速津媛という女性が登場します。日本書紀の記述によれば、第二戦の速津媛に比べて、神夏磯媛の「大物感・ミステリー感」が際立っています。日本書記の景行天皇巻や豊後・肥前の風土記には、次表のとおり多くの女性首長の伝承が残されていることが分かりました。「卑弥呼」の匂いを感じるのは私だけでしょうか?
日本書紀では、景行天皇が敵の攻勢に遭って退却して、行宮(かりみや)を建てて逗留したり、戦勝占いをしたりしながらも、最終的には5人の土蜘蛛(5つの小国の首長)を討伐する様子が描かれていますが、場所を特定できる記述がほとんど見当たりません。ところが、豊後国風土記や、神社の社伝、地元の伝承などには、日本書記と同じようなエピソードと共に、場所を示唆する記述があり、地名や神社の名前にもその名残が残されています。「こだわり」の強い私は、今年(2024年)の5月に「伝承地巡りの旅」に出かけましたが、発表当日は現地の写真を紹介しながら、私が感じた空気感を皆さんに「おすそ分け」しました。次の写真は行宮の伝承地、宮処野(みやこの)神社です。豊後国風土記には、“朽網(くたみ)の郷に行宮を建てなさった。こういうわけで、名を宮処野という”とあり、ドンピシャです。
発表の後、関さんから貴重な情報を頂きました。中国の歴史書は、「王朝名+書」(例えば「漢書」)と呼ばれ、皇帝の歴史を述べた「紀」、その時代の政治や文化などの出来事を記した「志」、功績のあった人の伝記を伝える「伝」の三部構成(例えば「漢書地理志」)から成るそうです。それをお手本にして日本の「正史・日本書」を目指していたのだとすれば、今の「日本書記」は「日本書の紀」、風土記は「地理志」と考えるべきで、結果的に完成せず、「日本書の紀」がいつの間にか「日本書紀」になったのだとか。中国の歴史書との対比でそう説明されると、とても説得力があります。参加者からこんなヒントをもらって、「エーッ!そうなの!」という発見ができるのも、この会の魅力のひとつです。
以上
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