開催日 : 2025年10月23日(木)
開催場所: オンライン
出席者 : 荻野、関、増山、森本、宮嶋、深田、鈴木[入会順、敬称略]
発表者 : 深田
第26代継体天皇の1回目。今回は継体天皇の出自・ルーツについて深堀してみました。継体天皇は、現在の天皇家の確実な祖先だと言われます。それは日本書紀に記されるそれまでのヤマト王権の大王家と継体天皇の間には血縁関係の断絶があるという見方があるからです。王権内部の相次ぐ後継者争いの結果、皇族の減少により大王家の後継者がいなくなる事態に至りました。そこで、第15代応神天皇の5世の孫にあたり、越前(または近江)にいた地方の王族であった人物に白羽の矢が当たりました。彼が即位したのは57才、西暦507年の時。第24代仁賢天皇の皇女を皇后としてヤマト王権に婿入りすることで皇統が維持されました。この過程の記述の信憑性を疑い、地方豪族による政権簒奪があったという見方があるわけです。そこで、応神天皇に遡るまでの継体天皇の4代の祖先がどこに住み、どんな勢力に支えられていたのか、4代のご先祖のものらしき古墳が存在するのか等の視点で探ってみました。
日本書紀には、応神天皇から仁徳天皇に代替わりした後、仁徳天皇の異母兄弟が傍系の王族としてどこに住んでいたかの記述がありません。継体天皇の4代の祖先についての系譜は、鎌倉時代に書かれた『釈日本紀』という注釈本の中で『上宮記一伝』という聖徳太子について書かれた本から引用されています。それによれば高祖父、曾祖父、祖父までの3代は近江の豪族・息長(おきなが)氏・坂田氏に支えられて琵琶湖の東岸周辺(坂田郡)に勢力を持っていたことが推測されます。父親の代から琵琶湖の西側(高島郡)に勢力を拡大し、地元の豪族三尾氏の助けを得たと推測され、それぞれ、4人の古墳についてもある程度の確度で存在すると推定している考古学者がいることがわかりました。
日本書紀や古事記には、継体天皇の即位とともに皇后を迎える前の8人の后妃の出身氏族が書かれています。その中で尾張氏から迎えた后妃の生んだ子供が第27代安閑天皇、第28代宣下天皇として即位していることから、尾張氏の支援勢力が強かったと思われます。近江の琵琶湖周辺の三尾氏、坂田氏、息長氏からも后妃を娶っていることからも近江の豪族が先祖代々支援していたと思われます。こういった証拠を考慮すると継体天皇とそれ以前の大王家に血縁の断絶があったとは考えにくいというのが結論となります。
継体天皇が越前の出身だと言われるのは、母親が越前の出身で、父親が早世したため、母親の実家の越前で育ったという記述が日本書紀に残っているからです。しかし、57才で即位するまで、ずっと越前にいたかは定かではありません。尾張氏の后妃の生んだ2人の天皇が即位した後、その後生まれたヤマト王権から迎えた皇后の生んだ子供が第29代の欽明天皇(540年即位~571年崩御)として即位します。このあたりからは、言い伝えの世界から歴史書の世界に入ってくるので疑う余地がなくなってきます。
継体天皇は507年に即位しますが、526年に大和に遷都するまで淀川周辺の地に3か所の宮を構えて留まっており、大和に入府して5年後の531年に崩御されています。即位後20年間大和に入れなかった理由にはいくつかの説がありますが、以下の説に説得力がありそうです。
応神天皇、仁徳天皇からずっと大王家に皇后を出し続けていた葛城氏が勢力を誇っていましたが、第21代雄略天皇が葛城氏や吉備氏の勢力を制圧したことで一時は天皇専制の軍事国家体制が出来上がりました。しかし、雄略天皇の没後はヤマト王権の力が弱体化し、傍系の葛城氏が勢力を盛り返して継体天皇の大和入りの牽制勢力となっていたと考えられます。この勢力がやがて蘇我氏によって吸収され、蘇我氏が継体天皇の大和入りを支援したことで、その後のヤマトの政治の中心豪族となり、天皇家に皇后を出す中央豪族として、葛城氏に代わってのし上がっていったと考えられます。

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