【活動報告】一期生同期会 川越探訪FW 2025.10.22

 昨年、山田昌久ゼミが幹事で深川訪問が実施されたことを受け、山田幸正ゼミとしては、夏期集中講座で実施した「谷根千探訪」をヒントに、山田幸正先生に相談した結果、先生の出身地川越で、小江戸川越観光では訪れない本来の川越を観て歩くフィールドワークを企画し、なんと、先生も参加していただけることになり実施しました。先生を含め17名の参加でした。

日時: 2025年10月22日(水) 13:00〜19:00(うち懇親会17:00〜19:00)
行程: 17名を、先生が先導する1班と吉野が先導する2班に分けて行動
   13:00 本川越駅集合→喜多院→(日枝神社、三芳野神社など)→川越市立博物館→
   川越氷川神社→バス(蔵造りの町並み)→小江戸蔵里(買い物等)→懇親会場19:00解散

本川越駅に集合

川越フィールドワーク ルート図

 本日のスケジュール確認と班分けして、いざ出発!
小雨でしたので、バス利用も検討しましたが皆さんの希望どおり全行程徒歩となりました。
先発した1班は、どろぼう橋から喜多院へ、後発の2班は、仙波東照宮から喜多院へ。

  1. どろぼうはし
     町で泥棒をはたらいた者は、喜多院寺領が江戸幕府のご朱印地のため、捕り方は境内に入ることができないことから、この橋をわたり喜多院に逃げ込んだ。それ以来、この橋を「どろぼう橋」と呼ぶようになったと、言われています。最初から先生のガイドに、ヘェ〜の声が飛び交っていました。

どろぼう橋

  1. 仙波東照宮
     徳川家康が亡くなった 1 年後の元和 3 年(1617)に、日光山への改葬の途中に、喜多院に4日間逗留し、天海僧正が大法要を営んだことから、寛永10年(1633)に東照宮をこの地に創建されました。全国に数多くある東照宮の中で由緒あるものと知り、納得の ホー でした。

仙波東照宮

  1. 喜多院
     宗派は天台宗。平安時代、淳和天皇の勅により、天長7年(830年)、伝教大師(最澄)の弟子、慈覚大師(円仁)により創建された勅願所であり、星野山無量寿寺と称しました。
     その後、元久2年(1205年)兵火炎上後、永仁4年(1296年)、伏見天皇の勅により、尊海僧正が再興し、仏蔵坊(北院)、仏地坊(中院)と多聞坊(南院)の三坊構成となり、関東天台宗の学問所、修行所として580余ヶ寺の本山として興隆しました。
     慶長4年(1599年)、天海僧正(慈眼大師)が第27世を継ぎ、家康、秀忠、家光の三代にわたり重用された天海の意見により、慶長16年(1611年)、徳川家康が、寺領500石を下し、仏蔵坊(北院)を喜多院と改称されました。

喜多院 慈恵堂(本堂)前にて

3.1 慈恵堂(本堂)
 中央には元三大師(がんざんだいし)とも言われる慈恵大師良源(じえだいしりょうげん)(比叡山延暦寺第18代座主)・開山慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)(延暦寺第3代座主)・中興尊海僧正(そんかいそうじょう)、左右に不動明王を祀っている。慈恵大師が「厄除けのお大師様」と慕われることから、喜多院は「川越大師」として親しまれています。
 小雨もあがり、荘厳な本堂がくっきりと現れ、ワアーと驚嘆の声と共に見上げました。

3.2 客殿・書院・庫裏
 客殿、書院、庫裏(くり:台所)は、寛永 15 年(1638)の川越大火後、三代将軍家光が直ちに喜多院の復興にあたり、江戸城紅葉山の御殿から移築したものである。家光誕生の間、春日局化粧の間があります。

家光誕生の間(左)および本堂への渡り廊下と庭園(右)

 格天井(ごうてんじょう)、襖絵など豪華絢爛な装飾や湯殿、厠もあり、江戸城内御殿の生活が垣間見られましたが、何と言っても、整美された庭園の静けさに癒され、眺めているだけで時が過ぎていきました。

3.3 五百羅漢
 釈迦の滅後、その教えをまとめる経典編纂会議に集まった500人の仏弟子を指します。川越北田島の僧侶志誠(しじょう)の発案により、天明2年(1782)から文政8年(1825)の40年間をかけて建立され、十大弟子、十六羅漢を含め533体、中央に釈迦如来、普賢菩薩、文殊菩薩、左右高座に阿弥陀如来、地蔵菩薩が座し、計538体があります。お気に入りの仏像に賽銭を置いて拝む人も。

喜多院 五百羅漢

3.4 山門
 寛永9年(1632)、天海僧正により建立された。寛永15年(1638)の川越大火で焼失を免れ、喜多院では現存する最古の建物です。写真を見るとその大きさがよく分かります。

喜多院 山門

  1. 三芳野神社
    創建:大同2年(807)
    祭神:素戔嗚尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、菅原道真・誉田別尊(ほんだわけのみこと)
    社名:在原業平「伊勢物語」に出てくる「入間の郡三芳野の里」という地名が川越の旧地名であったことによる。
     大宮氷川神社を勧請した、京都の北野神社を勧請したとも言われているが定かではありません。現存する社殿は、寛永元年(1624)、家光の命により、川越藩主酒井忠勝が造営したもので、寛永2年に天海僧正による遷宮式が行われ、以降、喜多院、仙波東照宮とともに江戸幕府直営社となりました。

<童歌「通りゃんせ」>
 当社の参道が舞台と言われています。当社は川越城築城により、城内の天神曲輪に位置することから「お城の天神様」と呼ばれました。城内にあることから一般の参詣ができなくなりましたが、信仰が篤いため、時間を区切って参詣できるようにしました。しかし、参詣するには南大手門から入り、いくつかの門をくぐらなければなりませんでした。また、参詣客に紛れて密偵が入り込むことを防ぐため、帰りには参詣者を警護者が厳しく取り調べたことから「行きはよいよい、帰りは怖い」と城内の女中の間で歌われるようになりました。それが、武士、僧侶、町人により江戸へ、やがて全国に広まっていったと言われています。思わず「通りゃんせ」を口ずさんでしまいました。

とおりゃんせ とおりゃんせ ここはどこのほそみちじゃ てんじんさまのほそみちじゃ
ちっととおしてくだしゃんせ ごようのないものとおしゃせぬ このこのななつのおいわいに
おふだをおさめにまいります いきはよいよい かえりはこわい こわいながらも
とおりゃんせ とおりゃんせ

  1. 川越市立博物館
     城下町川越の歴史、文化、蔵造りの町並みなどについて、ガイドさんから約40分の解説をしていただきました。蔵造りの町並みのジオラマは、幸正先生が監修され、作成されたものだそうです。蔵造りの町並みは、小江戸と言われていますが、実は明治になってから造られたものだそうです。

下町川越のジオラマ(左)、蔵造りの町並みのジオラマ(右)

展示物のガイドに耳を傾ける

  1. 川越氷川神社
     長禄元年(1457)、太田道真・道灌父子が川越城を築城以来、川越氷川神社は、城下の守護神、総鎮守として篤く崇敬され、江戸時代に入ってのちも歴代藩主より特別の計らいを受けていた。
     木製の大鳥居は、高さ15mで日本最大級と言われている。鳥居中央の扁額に書かれた社号は、勝海舟の直筆によるものである。
     本殿脇の絵馬の回廊をくぐり、本殿裏の御神木では、御利益を得ようと幹にタッチ。

川越氷川神社 拝殿

馬の回廊(左)、御神木(中)、木製の大鳥居(右)

 氷川神社からは、小江戸巡回バスに乗り、蔵造りの町並みを車窓から眺めながら、お土産などの買い物に「小江戸蔵里」へ。

小江戸巡回バス(左)、小江戸蔵里(右)

 歩行距離約4kmを、皆さん無事に完歩され、疲れも見せずにバスの中では、運転手さんのガイドに従って、右の車窓、左に車窓眺めながらワイワイガヤガヤ、他の乗客にご迷惑だったのでは?
 小江戸蔵里は、酒蔵を改造していることから、川越名物さつまいものお菓子などのお土産のほかに、地酒の試飲コーナーがあり、懇親会前に出来上がっている方も・・・。

  1. 懇親会
     皆さんの近況報告の中で、川越の地名の由来についてクイズをしました。皆さんも考えてみてください。
     クイズ : 川越の地名の由来は?
    ① 平安時代、この地を領地としていた豪族が「河越氏」と名乗っていたことから
    ② 入間川、荒川などの川に囲まれていて、川を越えないと入れない地域だから「河越」
    ③ 大きく流れる入間川や荒川により、土地が肥沃になっていることから「河肥」

懇親会にて

<回答>
川越市では、①河越氏の領地であったからとしていますが、当時の氏は住み着いた地名からとっていることがほとんどであり、河越氏も②、③から氏を名乗ったと考えられる。川越市も諸説ありとして、②、③の可能性もあると言っている。したがって、すべて正解ということです。

(文責) 吉野 伊智郎:幹事・山田幸正ゼミ1期生

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