【活動報告2026.3.17~19】縁joy!日本書紀の会 丹後・若狭フィールドワーク

比沼麻奈為神社にて

 本会では、日本書紀を紐解きながら日本の成り立ちを探求していますが、一昨年から年に1度、2泊3日のフィールドワークを企画・開催しています。2023年11月の伊勢神宮、2025年3月の堺・大阪に続く3回目として、2026年3月17日から、丹後・若狭方面へ出かけました。古代丹後王国や元伊勢などのミステリー溢れるエリアです。初めて会員8名が勢揃いした賑やかな旅になりました。

目次

第1日:舞鶴エリア(海軍港めぐり、赤レンガパーク、舞鶴引揚記念館)

 早朝に新横浜駅を出発して、京都駅から山陰本線に乗り換えて東舞鶴駅まで約4時間。疲れを癒す間もなくタクシーで舞鶴港へ向かいました。
 舞鶴港のある舞鶴湾は、湾の出入り口が約700mと狭く、平均水深は約20m、四方を400m程度の山々に囲まれているため、波も穏やかで、強風・荒天を避けられる天然の良港として知られています。明治政府はロシアとの緊張が高まる中、横須賀・呉・佐世保と並び、ここ舞鶴に日本海側唯一の鎮守府を開府して、日本海の防衛の拠点として軍港を整備しました。

 最初のお楽しみは、「海軍ゆかりの港めぐりクルージング」。現在の舞鶴港には、海上自衛隊舞鶴地方総監部がおかれ、本州の日本海側全体の防衛拠点となっています。フリゲート艦、イージス艦、護衛艦、造船所などを間近に見ながら遊覧船で巡りました。ガイドさんから、「この艦の艦長は、つい最近まで、若くて美貌の女性が務めていました」という説明を聞き、しばしイマジネーションの世界に浸りました。

 遊覧船発着場は舞鶴赤レンガパーク内にあります。鎮守府の時代の海軍兵器廠の倉庫や砲銃庫、魚形水雷庫などの赤れんが造りの倉庫群が、博物館やショップ・カフェ・イベント会場などに姿を変えて、120年前の明治期の面影を残しています。

 プレミアムカレッジの同窓生の中には、シベリア抑留という過酷な経験をもつお父様のご苦労を修了論文としてまとめあげた方がいらっしゃいました。舞鶴に行く以上、引揚記念館に足を運ばないという選択肢はありません。昭和20年の終戦後、約660万人の日本人の“引き揚げ”が開始され、全国で18の引揚港が設置された中で、舞鶴港は最も長い13年間にわたり、延べ346隻の引揚船と約66万人もの引揚者・復員兵を迎え入れました。昭和63年に開館した引揚記念館は、シベリアの地で使用したコートなどの防寒着や「引揚證明書」などの文書類など全国から約1万6千点の貴重な資料の寄贈を受け、その一部がユネスコ世界記憶遺産として登録されました。抑留生活体験室や、白樺の木の皮に綴った日誌などなど、記憶遺産の意味を肌身に感じたひとときでした。

第2日:天橋立・伊根エリア(元伊勢、伊根舟屋、天橋立)

 二日目は「元伊勢伝承」や多くの神話が伝えられているミステリーゾーン・丹後半島を巡りました。 日本書紀では、第10代崇神天皇の皇女・豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)と、第11代垂仁天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)が、皇祖神・天照大御神の鎮座地を求めて各地を巡り、最終的に伊勢神宮にお祀りしたと伝えています。一方、外宮のご祭神・豊受大神のご鎮座の経緯について、ご由緒では、第21代雄略天皇の夢枕に天照大御神が現れて“丹波国の比治(ひじ)の真名井に坐す御饌都神(みけつかみ)「等由気大神(とゆけのおおかみ)」を呼び寄せよ”と仰ったことから、外宮を建立して豊受大神をお祀りしたとし、比治の真名井の比定地として、現在の京都府宮津市辺り、比沼麻奈為神社(ひぬまないじんじゃ)や籠神社(このじんじゃ)を挙げています。

 ホテルから観光タクシーで比定地の一つ、比沼麻奈為神社へ向かいました。タクシーの予約の際、「え?ひぬま..?聞いたことないです!」というやりとりがあったので、企画担当・幹事役としてはドキドキした出発でした。タクシーの営業所でも誰ひとり知らなかったそうで、「えらいマニアックな所に行かれるんやなあ」と話題になったとか。そのため事前に下見をして、場所の確認や、ジャンボタクシーが通れるかどうか、クルマを停車できる場所があるかどうかなどを事前確認してくださったそうです。しかし行ってみると、伊勢神宮と同じ神明づくりの社殿で、神社愛に溢れるお話し好きの神職が常駐する立派な神社でした。ご祭神はもちろん豊受大神。

 次の奈具神社は、タクシー営業所内の噂どおりの「えらいマニアックな神社」でしたが、味わい深いお社でした。丹後国風土記には、比治の山・磯砂山(いさなごさん)に舞い降りた8人の天女の一人が奈具の村に留まり、万病に効く酒造りを伝えたという羽衣伝説が残っていますが、その天女こそが奈具社のご祭神「豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)」で、五穀豊穣・衣食住守護・諸業繁栄の神と伝わっているとか。近くには奈具岡遺跡群と呼ばれる弥生時代中期(前1世紀~1世紀)の遺跡があり、約2000年前の玉作り工房跡や、大量の鉄製工具類、製鉄と関係する古代遺跡などが発掘されています。このような考古学的な発見は、「天女=豊受大神=渡来人」という妄想(?)を勇気づけます。次図のとおり、丹後半島には、3万6千年前の旧石器時代の遺跡や、日本海三大古墳など多くの遺跡が残っています。この地域は律令制以前は「丹波(たには)」と呼ばれていましたが、日本書紀では、第9代の開花天皇、第11代の垂仁天皇が、丹波国の姫をお妃に迎えたこと、第10代の崇神天皇が、全国平定のために四道将軍(しどうしょうぐん)の一人を丹波国に派遣したことなどが伝えられていて、ここに強大な勢力があったことをうかがわせます。

 次の訪問地は、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されている伊根の舟屋街。1階に舟の収納庫を持つ建屋がまるで海に浮かんでいるように立ち並んでいます。本来は静かな漁村なのでしょうが、インバウンドの観光客で溢れ返っていてビックリ。舟屋のオーナ直々のご説明を頂きながら舟屋内部の見学のあとは、伊根湾の海の幸ランチを楽しみました。

 ランチの後は、観光船で伊根の舟屋を海側から眺めました。生憎霧雨に見舞われ、万全の防寒・防水対策をして乗船しました。カモメや鳶の餌やりに夢中になっていて、海から舟屋街を眺めるという本来の目的を果たすまもなく下船の時を迎えてしまいました。

 次は、二つめの比定地、籠神社(丹後国一之宮・下宮)と眞名井神社(上宮)です。神社の伝承では、ここが天照大神が伊勢神宮・内宮に祀られる前の最後の4年間を過ごしたお社、雄略天皇の夢枕に立った天照のお言葉を受けて、豊受大神をお迎えに来たお社と伝わっているそうです。神職(社家)を務める海部(あまべ)氏は、籠神社のご祭神・彦火明命(ひこほあかりのみこと)を始祖とする一族で、現在の宮司が83代目。その系図(海部氏系図)は日本最古の系図として国宝指定されています。海部家に伝わる「息津(おきつ)鏡」「辺津(へつ)鏡」は、十種神宝(とくさのかんだから)の2鏡と言われ、出土品ではない伝世鏡では日本最古とか。小説「アマテラスの暗号」(伊勢谷武)は、第82代目宮司・海部直彦がニューヨークのホテルで殺害された事件から始まる歴史ミステリーの形で、日本の神・神道について大胆な解釈を展開しています。謎めいた「かごめかごめ」も、この下宮・上宮にまつわる秘密を伝えているとも。丹後半島はミステリーの宝庫です。

 今日のフィニッシュは、日本三景の名勝・天橋立。天橋立傘松公園から、天橋立の全貌を楽しみました。ここでのお作法は「股のぞき」。天と地が逆さになって、龍が天へ舞い上がるように見えるんだそうです。柔軟性を失い、お腹の脂肪に邪魔された身には、思いのほか厳しい姿勢でした。この後は、対岸の天橋立駅まで、遊覧船で移動するグループと、天橋立を縦断踏破するグループに分かれて、神秘の造形を身近に感じました。日本の名松百選、日本の名水百選、日本の道百選、日本の白砂青松百選、日本の渚百選、美しい日本の歴史的風土百選、日本の歴史公園百選、日本の地質百選。。。よくぞ選んだり!

3日:三方・敦賀エリア(年縞博物館、三方五湖、氣比神宮

 慌ただしくも、楽しく学んだフィールドワークも今日が最終日。西舞鶴駅からJR小浜線で小浜駅へ移動し、三方五湖に面した年縞博物館へ向かいました。年縞とは、三方五湖のひとつ・水月湖の湖底に、夏の珪藻(プランクトン)層、冬の粘土層が1年に1層ずつ積み重なった縞模様の堆積物。平均0.7ミリの層(1年分の縞)が一度も途切れることなく、約45m何と7万年に渡って積み上げられているそうです。1991年からのボーリング調査で年縞の全貌が判明して、2006年に「完全に連続した年縞」の採取に成功し、2018年に年縞博物館が開館して、7万年に渡る年縞が公開されました。博物館では、年縞愛に溢れた説明員の方が約1時間に渡って詳しくご説明くださいました。「湖底が攪乱されることもなく、何故7万年に渡る層が積み重なったのか?」という素朴な疑問にも、極めて明快かつロジカルにご説明いただき、多数の好条件が重なった奇跡的・神秘的な遺産であることを素人ながら理解することができ、神話・伝承の「モヤモヤ感」とは全く異質の「スッキリ感」を味わうことができました。

 この年縞は、2013年に国際的な年代測定の標準尺度のひとつとして採用されて、これにより、ピラミッドの建造時期などの人類史の重要な出来事の年代確定に用いられているそうです。薩摩半島の南海底に沈む鬼海カルデラは、過去1万年間で世界最大規模の超巨大噴火で、火砕流によって九州南部の縄文文化を壊滅させたそうです。下・中央の写真の左側の太い灰色の層はその時の火山灰の堆積で、これにより7253±23年前という精度で年代が確定したとか。卑弥呼の時代や、空白の4世紀などの年縞をみると感慨深いですが、残念ながら年縞は邪馬台国の所在は教えてくれません。

 年縞博物館に併設されている縄文博物館を見学した後、観光タクシーで敦賀駅へ向かいました。途中三方五湖と若狭湾を眼下に臨める展望台、日本三大松原のひとつ気比の松原、北陸道総鎮守・越前国一之宮「氣比神宮」に立ち寄りました。日本書紀では、第14代仲哀天皇が敦賀(角鹿)に笥飯宮(けひのみや)と称する行宮(かりみや)を建ててお住まいになられた、神功皇后も敦賀(角鹿)に滞在していた、神功皇后が譽田別尊(ほんだわけのみこと)(=第15代応神天皇)に敦賀の笥飯大神にお参りさせたなどの記述があり、敦賀・氣比神宮との接点を強調しています。極めつけは、譽田別尊と笥飯大神が名前を取り換えたという記述。年縞の説得力とは裏腹の(日本書紀らしい)「眉唾」の記述ですが、日本書紀の編集者にとっては、敦賀・氣比神宮は言及せざるを得ない重要な地域であったことは間違いなさそうです。

 いろんな発見があったフィールドワークもいよいよフィナーレ。北陸新幹線の開通で装いを新たにした敦賀駅を後にして、新横浜へ向けて帰路につきました。来年のフィールドワークの企画で盛り上がりつつ。

(1期生)荻野

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