開催日 : 2026年 7月 23日(木)
開催場所: オンライン
出席者 : 荻野、増山、森本、宮嶋、深田、鈴木[入会順、敬称略]
発表者 : 鈴木
神武東征とは何だったのか。今回は、今一度『日本書紀』を素直に読み直してみました。そこで見えてきたのは、アマテラスの孫であるニニギノミコトが高天原から日向に降臨したのち、三代を経たカムヤマトイワレヒコ(神武天皇)が日向の田舎から国の中心(六合の真中)を目指し、そこに都を建設するというテーマで全体が貫かれている、ということでした。しかし、それでもなお疑問は多く残ります。なぜ降臨したのは「天孫(孫)」だったのか、なぜ降臨した場所は「日向」だったのでしょうか。
近年、『日本書紀』の研究が進展し、その成立事情が解明されつつあります。その研究手法の一つが「区分論」です。『日本書紀』は漢文で書かれており、一部の人物名や歌謡などには当時の万葉仮名が使われています。その用語や発音・用字が当時の中国語(唐の言葉)にどれほど忠実か精査することで、各巻が異なる執筆者によって書かれていることが分かってきました。第14巻の雄略天皇から第27巻の天智天皇まで(ただし第22巻・23巻を除く)は、正確な漢文と唐風の万葉仮名用法から、唐からの渡来人が執筆したと想定されています。一方、その他の部分は和風の漢文が散見されるため、日本人によって書かれたと考えられています。
『日本書紀』は、681年に天武天皇が編纂を命じ、持統・文武・元明の各天皇の時代を経て、720年に元正天皇のもとで完成・奏上されました。5代にわたる天皇が関与したわけですが、そのうち3代は女性天皇です。
本格的に唐人による執筆が始まったのは、持統天皇の時代(690年頃)と考えられています。執筆は第14巻から第27巻までがまず着手され、その時点では第1巻の神代から第13巻の安康天皇までは内容がまだ固まっていなかったようです。その後、『続日本紀』には、714年に元明天皇が「紀清人・三宅藤麻呂に詔して国史を撰せしむ」と命じた記載があり、この時期から本格的に第13巻以前および第28巻以降の執筆が始まったと考えられています。

持統天皇は、夫・天武天皇の死後、自らの子である草壁皇子に皇位を継がせるためさまざまな工作を行い、ライバルであった大津皇子を死に追いやりました。しかし、その直後に草壁皇子も病死してしまいます。結果として持統自らが即位することになりますが、その真の目的は、草壁の子であり、当時まだ6歳だった孫の文武天皇が成人するのを待って皇位に就かせることでした。当時、孫に皇位を継がせる前例はありませんでした。そこで考案されたのが、日本の建国神話です。天を統べる神アマテラスを女性とし、その「孫」を地上に降ろして葦原中国(日本)の統治者とする神話(天孫降臨)を成立させ、孫への継承を正当化したのです。
話はそれだけでは終わりません。14歳で即位した文武天皇は、持統および母である元明天皇のサポートのもと政務を行いましたが、25歳の若さで夭折します。残されたのは、まだ7歳の首皇子(のちの聖武天皇)でした。そこで即位したのが、文武の母であり聖武の祖母にあたる元明天皇です。
文武を異例の14歳で即位させ早死にさせてしまった教訓から、元明は14歳で聖武の立太子を行いつつも、翌年には自身の娘であり文武の妹である元正天皇へ皇位を譲りました。聖武が皇位にふさわしい年齢になるまでの後見を、叔母にあたる元正に託したのです。
このように、二代にわたる「祖母から孫へ」という異例の皇位継承は、天孫降臨という神話によって正当化されました。『日本書紀』の成立背景には、「何とかして孫を天皇に就かせたい」というおばあちゃんたちの強い思いが込められていたのです。


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